「大雪海のカイナ ほしのけんじゃ」感想というか考察

見てきました劇場版。まさか作品に初めて触れてから4日で映画見に行くとは思わなかった。

 

テラフォーミング進行中の星だったという事実に一本取られた感があり、まず考察書いて、その後感想書こう!と思ってたら考察書いただけでおなかいっぱいになっちゃった😇

 

漫画版やBD特典の設定資料集、他の弐瓶勉作品などのにはあたれてないので、だいぶ的はずれな考察になってるかもしれない。

 

カイナの住む星の歴史

まず物語の舞台となる星のざっくりとした歴史については以下のようになる。

 

最初に地球人がこの星に宇宙移民としてやってきて、テラフォーミングを始める。

しかし長いテラフォーミングの中で分断が起き、大きな戦争や紛争が発生し、その反省を踏まえて大部分のテクノロジーを封印することで、世界的に軍縮が起きる(おそらくこれが「賢者、悲しみて森に身を隠す」の部分)

そして文字とともにテラフォーミングを止める手段も忘れ去られていき、本編に繋がる。

 

忘れ去られた文字

この歴史を踏まえて、なぜ文字が忘れ去られ、再発明されなかったのかについて考えてみたのだけど、設定の整合性に疑問を残すところとなった。

 

そもそもどうすれば人類全体で文字文化が消滅するんだろうか。

どれだけ文明が停滞したところで文字ほど手軽で便利な道具を使わなくなることは考えにくい。

となると文字は自然に忘れ去られたのではなく、封印されたと考えることができる。

 

誰がなんのために?

その手がかりとなる存在がヒカリで、パンフでも言及されていたようにヒカリは人類をゆるく監視するガジェットだった。

テラフォーミングが完了し、それを止めるに資する「善人」が現れたとき、その人間たちをサポートする高度AIだったのだろう。

 

つまりこのスキームを作り上げた人々が背後にいるわけだけど、おそらくそれは軍縮を推し進めた人々と同一の存在で、争いの種になるテクノロジーと同時にそれらにアクセスするための文字まで放棄したのではないか。

ただ、テラフォーミングそのものは将来的に停止する必要があるため、特権的に「文字読み」という集団にだけ文字の解読を許し、それ以外の人々には禁忌とされた。

しかし実際にはあまりに長い年月の中で、文字読みの存在意義、ひいては禁忌そのものも忘れ去られてしまった。

 

文字が忘れ去られた経緯についてのは仮説はこんな感じなんだけど、この仮説かなりガバガバでもある。

というのも、テラフォーミング停止の末に文字を、ひいてはテクノロジーを取り戻せば遅かれ早かれ人類戦争しちゃうやんと。

そう考えると文字の放棄はただ問題を先延ばしにするばかりかいたずらに文明を停滞させる非合理な選択で、このスキームを考えたやつはアホということになり、仮説そのものも非合理になってくる。

それに結局本編ではローテク環境ですら戦争してるわけで。

 

少し話はズレるけど、ヒカリの「ゆるい」干渉を考えると、テラフォーミングを止めるに資する人間が現れなけりゃしゃーないみたいな設計思想も見えてきて、提督やビョウザンのような「悪人」が頂点に立つくらいなら、人類なんか滅んでいいというラディカルな考え方をしていたのかもしれない。

パンフの鼎談で村井さだゆきがヒカリはある意味怖い存在だと指摘してたけど、確かにそれそうで、善か悪か、正しいか正しくないかは昔の誰かの判断が絶対的なものになっていて、それって気持ち悪い話でもあるよなと。

 

再発明されなかった文字

一方で文字が再発明されなかった理由についてだけど、こっちはちょっと仮説が立たなかった。

 

記号が存在することを考えるとそれが文字に発展しなかったのは不自然だし、アトランドやバルギアの文明レベルを考えるとなおのこと(プラナトではビョウザンが独占していたのだろう)

まあタイムスパンが判然としないし、マヤのように文字文化が無くても高度に発展した文明もあるので一概には言えないのだけれど、それが全世界的となるとちょっとなあ。