折り合い

感想

前回の日記から更に2週間が経ったけど無為に過ごし続けている。

朝起きて納豆食って夜までネットやって夕飯作ってシコって寝る。

体力気力ともに回復してるのにこれをほとんど2週間ずっと繰り返している。

原因は例によってアニメの感想。

文章書くのがしんどくてしんどくて、すぐネットに逃避してしまう。

「ネット断ち」も長い休みの間で効力を失ってしまいもはやガラクタと化した。

色んな意味で文章書くの向いてないことを改めて思い知らされているのだけど、「じゃ、やめちまうか」となるとアウトプットは大事だからと踏ん切れない。

とは言えここ10年くらい、感想が書き進まないせいで数週間に亘って全く何もしない時期ってのが数え切れないくらい発生してきた。

そんな風に逃避的に時間を浪費するのを本当にいい加減どうにかしたいのだけど、もう感想を諦めるほかないんだろうか。

感想にウェイト置きすぎなのが悪いと毎回反省して当初こそ実践できてるんだけど、いつの間にかちゃんと書くことにこだわりだして、最後にはキャパオーバーで破綻を迎える。

今回だって「翌日までに書ききれなければ諦める」ってルールを決めてたはずなのに気づいたらうやむやになって、見た作品片っ端から感想を書かなきゃ気が済まなくなっている。

こうやって強迫観念・行為がエスカレートしていくのを自覚できない以上はそもそも感想を書かないという解決策しか無いように思う。

とは言え諦めがたさもあり、翌日までに書けなかったらその時点で諦めるってルールを厳格に運用することで、自分にラストチャンスを与えたい。

それで今回もまた生活が破綻するようなら今度こそ諦めよう。

まあ次破綻する頃にはこんなコト書いたの自体忘れて同じ過ちを繰り返し続けてる気がしないでもないけど。

不完全恐怖

辛い・苦しいことを無理にやろうとしてる自分を顧みて、そもそも不完全恐怖そのものに折り合いをつける時が来たんじゃないかと考えていた。これもまあ毎度のことではあるけど。

あれをやりたいこれをやりたいと思っても、そういう欲求を封殺してアニメとその感想に莫大な時間を振り向け続けることがやめられない。

仮にそうした時間が作れたとしても、例えば続き物だったら1から見ないと気が済まなかったり、文脈を無視した形での作品鑑賞ができず、本当にやりたかったことはできない。

アニメをできる限り多く見ないといけない、順番通りじゃないと気が済まない。不完全恐怖による枷があまりに重く、苦しい。

気の向くまま好きなことをやれたらどれほど楽しいだろうかといつも思っている。

一方で強迫性を手放したとしても本当に充足感は得られるのかとも思う。

今からもう好きなことだけをやってていいよと言われたとして、僕が今やりたいことはなんだろう?パッと思いつかない。

ある種レガシーなRPGからオープンワールドにいきなり放り出されたようなもので、そこで初めて強迫観念が行動の指針であったことに気づく。

いや世界を探索してみればやりたいことは必ず出てくるはずだから、そう考えを急がず、興味関心の赴くままに生きてみればいいのかもしれない。

ただそんな自分を想像したとき果たして本当に満たされているのかハッキリとは言えないところがある。

結局のところ、何かをひたすらイチから順番にやっていく行為は楽しくもあり、強迫行動が強い充足感を僕に与え続けてきたことも事実だった。

OCDは枷でありながら、原動力であり、推進力ともなってきたのだ。

どっちにしたって満たされそうにない、なんだか八方塞がりの感はあるけど、御託はいいから一度根こそぎ変えてみたらいいのかもしれない。

それで前より幸福度が下がる感じならまたもとに戻せばいいわけだし。

そもそも強迫性って自分の根幹をなしてるようなもんで、やめようとしてもそういう思考になっちゃうような気もするんだよな。

案外、意識的に強迫性から離れようとする自分と、無意識に強迫性に近づこうとする自分がちょうどよく引き合いになってかえってバランスが取れたりするのかもしれない。

ということを書いてきたらなんか本当に変えてみてもいいんじゃないかという気になってきている。

じっくり考えてみよう。