6期鬼太郎(の主にぬらりひょん編)のクソ長感想

1週間で70話?見れらあっ!……え!1週間で70話を!?

今回『ゲゲゲの謎』が上映されることを知り、今月の頭から6期鬼太郎をちょろちょろ見始めたんだけど、当初は「月末までに完走できりゃいいかな」くらいのペースで見ていた。

 

20話かそこらを見終わった10日ほど前、映画について調べていたら11/18にスタッフトークショー付き上映があることを知った。

この時点で結構ハマっていたこともあり「これ絶対行きたいぞ、でも10日弱で完走するのは無理だよなあ」と思ってたんだけど、考え変わって「いややっぱ完走したろう」と。

 

そう思ったのが確か11月10日で、残りちょうど70話残っていた。つまり翌日から1日10話見て完走できるペース。

さすがに厳しいだろうとは思ってたんだけど自分でも驚いたことに完走してしまった。

いやもうほんとに鬼太郎見ては感想メモしてその合間に用事済ませてという感じで、鬼太郎見るために生きてたような1週間だった。

 

6期鬼太郎の面白さ

こんなことができたのはもちろん映画に間に合わせることが義務感やモチベーションになったところは大いにある。

でもそれだけじゃなくて「ゲゲゲの鬼太郎」という作品がそれほど面白かったというのが一番だろう。

 

全体的に脚本のレベルが高く、同時に毎回テイストが違うことで本当に飽きさせず、基本1話完結ながら1日10話も見れたのは脚本の面白さにあったことは間違いない。

見終わったら「6期鬼太郎のエピソードベストテン」って記事を書いてみようかと思うくらい面白い脚本が多くて、親子の情愛が描かれたり、人と妖怪の断絶が描かれたり、ねこ娘が時をかけてみたり、時には鬼太郎がかまぼこになったりと泣いたり絶望したりキュンキュンしたり笑ったりと色んな気持ちにさせてくれた作品で、「次はどんな話になるんだろう」と予告を見てはワクワクしていた。

 

またシリーズ構成にも優れていて、1話完結ながらシリーズごとにテーマも設けられていることで、テーマに関連した情報が小出しに描かれるのだけどそれが巧みだった。

例えばぬらりひょん編となった最後の2クールは、それまでにも少しずつ描かれてきた人間と妖怪の共存というテーマを結実させるため、テーマに基づいた人と妖怪の交流やすれ違いを描いたエピソードが如実に増える形となり、「こうした経験を通じて鬼太郎がどんな答えを出すんだろう」とラストに向かって否が応にも期待を高めさせるものになっていた。

とは言ってもこの点について言えば、結果描ききれなかった印象を持ったんだけど、それは後段に譲る。

その意味で名無し編は非常によくできていたけど記事が長くなりすぎるのでこの辺にしておく。

 

脚本が良質ということは当然キャラクターにも魅力があるということで、気づいたら鬼太郎はじめキャラクターにも強い愛着を覚えていた。

ねこ娘やまなちゃんはかわいかったし、古川登志夫演じるねずみ男も大好きだった。

 

けどやっぱ一番は鬼太郎かな。

人間と妖怪の調停者として人と妖怪の共存を夢見るんだけど何度も絶望を味わうんだけど、ヒロイックである一方でひどく苦悩する姿が本当に魅力的で、自分にとっての理想の主人公の一つを提示してくれたようなキャラクターになっていた。

特に83話のほうこうの回のラストシーンの鬼太郎の背中と隠れた表情から鬼太郎の怒りと悲しみが強く伝わってきて、ひどく胸を締め付けられるものがあった。

 

だから見終わるに近づくにつれて「終わってしまうんだ」という寂しさが芽生えはじめ、実際全部見終わった今はとても寂しくなっている。

 

人と妖怪の共存

さて前置きがずいぶん長くなってしまったけど、一番書きたかったのはぬらりひょん編のことだ。

 

先にも書いたようにこのぬらりひょん編は作品を通じて描かれてきた「人と妖怪の共存」というテーマが中心になっていた。

それがどんな形で結実されるのかすごく期待してたんだけど、そこが上手くいかなかったことを始め、ぬらりひょんの扱いやまなの記憶など結構不満が残ることになってしまった。

 

一つ予想していた展開として、鬼太郎が人と妖怪の板挟みになって追い詰められる中で鬼太郎に救われてきた人たちが今度は鬼太郎を救うようなものになるんじゃないかと考えていた。

人と妖怪の関係に希望を見出すなら鬼太郎自身が信じようとしてきた良識ある人々こそが希望そのものと言えて、ベタな展開だけどそうした人々の想いによって鬼太郎が絶望の淵から救われることが形としては一番綺麗だからだ。

 

でも実際には鬼太郎を救う役目がまな一人に背負わされる形になってしまって、結局人間と妖怪の絆ではなく、単に鬼太郎と犬山まなという個人間の関係に閉じてしまったような印象を覚えたのだ。

まなとの出会いに始まり、名無し事件では鬼太郎がまなを救い出し、最後はまなが鬼太郎を救う。二人の関係という意味では確かに綺麗に描けていた。

でもそうした救いがまな一人の力になってしまうとテーマの持つ意味合いが弱まってしまったように思えた。

 

鬼太郎があらざるの地に行ったのは絶望ゆえと閻魔大王は語っていたけど、この絶望に関しても、もっと人類全般への絶望として描けなかったのかと思う。

「嫌いなものは嫌い」という総理の言葉も説得力はあったのだけど、結局それにしても総理個人の発言に過ぎない。

そういう人間がいる一方で分かりあえる人間も大勢いるということは鬼太郎自身が何度も言動で示してきたことで、そうであれば大勢の人間の手で殺されるという絶望はより説得力あるものになったのではないか。

特にここでぬらりひょんが糸を引く形で美琴を動かせば最高の展開になっただろうと個人的には思う。

 

ぬらりひょん

そしてそのぬらりひょんの存在感の薄さもまた不満点として残った。

シリーズ通して策謀を巡らせ、鬼太郎を、人間を陥れようしてきたわけで、では本格的に戦いが始まったら鬼太郎といかに対峙していくのかも見どころだったからだ。

 

にもかかわらず95話で戦争を引き起こした点を除けばあまり目立った行動が見られなかったのは寂しく、形はどうあれもっと鬼太郎とぬらりひょんの対決色を打ち出してほしかった。

確かにぬらりひょんが分断を扇動したことが鬼太郎殺害につながってはいるんだけど、95話を見る限り鬼太郎や総理をそそのかしたでもなく、偶発的に殺された感が強かった。

だからせめて総理による鬼太郎殺害はぬらりひょんの強い関与を示唆してほしかった。

もちろん一番見たかったのは上に書いたようにぬらりひょんに扇動された大衆が鬼太郎を殺害する展開だったわけだけど。

 

結局戦争が始まってからは鬼太郎は不在だったし、帰ってきたら帰ってきたでぬらりひょんは自害しちゃうしと決着ついた感じがしないんだよな。

しかもぬらりひょん自身の目的が妖怪の復権であったはずなのに、妖怪側もかなり人間にやられている上、最終的には策に溺れてバックベアードに地球そのものを破壊されそうになっていることを考えると、なおさら微妙に思えてくる。

対決色が弱いにしても、全てぬらりひょんの手のひらの上で物事が進むんだけど、最後はバックベアードの暴走を予期できなかったことで狼狽する形だったならばカタルシスが味わえて、納得行っていたかもしれない。


バックベアードにしても同盟に関しては盛り上がったけど、逆に鬼太郎VSぬらりひょんという構図がぶれてしまって終わってみると邪魔だったのかなと。

アニエスアデル姉妹が決着をつけるとかでも良かったかもしれないけどそれも尺とかパワーバランスを考えると難しかっただろう。

 

まなの記憶

まなの記憶については、記憶を鬼太郎に全部与える展開自体は感動的だったけど、その後の記憶の回復がちょっとどうだったんだろう。

そんな簡単に思い出してもという話で10年という歳月で重みを与えたってのは分かるんだけど、温泉で撮った写真だったり周囲の人間の記憶だったり、形として残ってる思い出がある中で全く思い出そうともしなかったというのは違和感があった。

もちろんライター陣がそんなこと考えてないわけはないのでちゃんと理由があるんだろうけども。

時間経過させないでベタに「思い出せないけどすごく大切なことだけは覚えてる」みたい終わり方でも良かった気がするけど、それでも形として残ってる思い出との整合性が取れないんだよな。

おわりに

こうしてみるとぬらりひょん編に関しては戦争が始まる前、特に95話の鬼太郎殺害がピークになってしまった感は否めない。

更に死ぬことで逆に鬼太郎の復活が予見されてしまい、ある程度筋も見えてしまったところがある。

 

とはいえ鬼太郎の死そのものの盛り上がりはものすごくて、見てから2時間くらい放心状態になっていたわけだけど。

鬼太郎がねずみ男に覆いかぶさる姿、背中に何発も突き刺さる弾丸、ねずみ男の芝居。自分にとっては本当に忘れられないシーンになった。