トゥルーノース
北朝鮮の強制収容所を描いた作品ということでどうしても最近見た『フナン』と比較しながらの鑑賞になってしまった。
清水ハン栄治監督が話しているようにトゥルーノースでは収容所の過酷さのみを描くのではなくエンタメ要素を盛り込んでいて、ひたすらに写実性を追求したフナンとはその点で明確に違っていた。
例えば作業中に主人公の掛け声のもと歌いだすユーモラスなシーンがあったり、死にゆく者たちを看取って回るシーンは感動的に描かれていたり、そうした描写が作品に緩急を与えていたことは間違いない。
けれども同時に当局がそうした行動を容認するのか、脚色が過ぎるのではないか、そんな疑問も覚えてしまった。
主人公の告発によって所長始め看守たちが失脚していくラストシーンはその最たる部分で、個人的にはそこにカタルシスというより嘘臭さをより強く感じてしまった。
フナンではそうした希望はほとんど描かれず淡々と地獄を描いていたからこそ、いっそう真に迫ってくるものがあったのだと思う。
まあどこまでの自由が許されるのかは時代・場所によって違うだろうし、トゥルーノースだって大した脚色は無かったりするのかもしれないけど。
また監督はいかなる状況下であれ希望や尊厳を持って生きることをテーマとして掲げていて、そもそもフナンとはアプローチが違っていることも留意しておきたい。
それでも両作品ともに根っこには自由への希求があり、それを強制収容の実態を通じて表現しようとした点においては全く共通していた。
そしてその点はフナンと同じくらいの説得力をもって描かれていて、食料もまともに与えられずほとんど一切の自由を奪われて奴隷として生きていく絶望感は身の毛がよだつほどに伝わってくるものがあった。
仮に自分が同じ状況に置かれた時、人としての尊厳を保ち続けられるだろうか、弱っている人にパンを分け与えられる人間のままでいられるだろうか。
スクリーンを見ているとそうは考えずにいられなくなるし、考えるほどに自信が無くなってくる。あるいは早々に絶望して自殺してしまうかもしれない。
だがこれは想像ではなく現実の話であり、北朝鮮にとどまらずトゥルーノースに描かれたような劣悪過酷な環境で生きることを強いられてる人々が世界中にいるのだ。
そのことは忘れたくないと思った。