世界征服 〜謀略のズヴィズダー〜 #4「UDOは冷たい土の中に」

「妖精」

ほぼ書き上がっていた感想が「わや」になってしまった。
5話に進む前にもう一度4話を見ておこうと思い、自分なりに解釈した「妖精」を念頭におきながら見ていたのだが、どうも違うような気がしてきて、見終わる頃にはもう完全に読みを外しているとしか思えなくなってしまった。
「妖精」とはなんなのだろうか。
回想の中でナターシャが妖精の登場する絵本に目を向けながら、両親はこの世にありもしない変なものにハマってしまったと話す場面があった。
この世にありもしない変なもの、ハマったという表現からカルト等の何らかの思想であるということは読み取れる。
更に両親が文明批判的と見られる部分も出てきたため、当初なんらかのエコ思想なのではないかと思い、その前提で感想を書き上げた。
が、改めて見返してみると、ナターシャ自身も妖精を拠り所にするような場面が見受けられることに気づいた。
妖精なんて子供だましだと馬鹿にしながらも、メカいじりに熱中する傍らに妖精の絵本があったし、

過去と対峙した際に少女の姿で描かれたナターシャは絵本を抱きしめる格好で怯えていた。

しかしナターシャがエコ思想を拠り所にするというのは考えにくい。
ナターシャも両親も共通して拠り所とするものは何かと考えたとき、信仰という答えに行き当たったのだがこれはこれで解釈に飛躍する部分が出てきて再び行き詰まった。
両親が信仰に傾倒したとしても、そうした思想に文明批判的な要素があったとしてもも違和感はないのだが、ナターシャに信仰心というのがどうにもしっくりと来ないのだ。
加えて信仰心があるならば「妖精」を指して変なものと言うのもおかしいし、ロボ子との出逢いをして「妖精」を見つけたと言うのも意味が通らなくなる。
それでは「妖精」とは何になるのか。
おそらく具体的な思想といった何かではなく、もっと広い意味で、依拠の対象のようなものではないか。
当然それは人によって違ってくるものであり、両親もナターシャも共通してこだわっていても自然だ。
両親にとってはそれがなんらかの思想であったし、かつてナターシャにとっては両親、あるいは母親とのつながりであったあの絵本がそうだったが、後にロボ子という新しい「妖精」を見つけたといったように。
妖精の存在のハッキリしない性質というのも具体性が無い感じと重なって見えなくもない。

さてこの前提の上で物語を振り返ってみたい。
「妖精」とともに解釈が大きく分かれるであろう部分が両親がナターシャを連れ回したシーンだ。
両親はなぜナターシャを連れ出したのか、どこを歩いたのか、あの洞窟はなんなのか、なぜ西ウド川とつながっていたのか、そもそもこれらは実際にあったことなのか……。
まず以下のシーンを見てほしい。




当初ただ各所を歩き回ってるだけとしか捉えられなかったのだが、こちらのブログの考察が非常に参考になった。
世界征服〜謀略のズヴィズダー〜 4話 -ナターシャについての一考察- : 愛は太陽だよ!

のどかな田園風景から始まり、農耕集落を経て、工場を通り、町を通る。これは科学の発展の結果起きた、産業革命を彷彿とさせる。

そう。これは確かに発展を示している。
ただ、「妖精」の解釈が大きく異なるため、ここから読み取れる意味も全く違うものになった。
これらの示すところは実際に3人が歩いた道のりだったのではないかと思う。
草原から村へ、村から町へ、町から都市へと。
なぜこんなことをする必要があったのか。
先程述べたように両親にとっての「妖精」とは何らかの思想であり、それが文明批判的な教義を持っていたからなのではないかと考えた。
そのために都市とは、文明社会とはこんなにも息苦しいところだということをナターシャに身を持って学ばせる目的があった。

ナターシャは自分がメカ以外に感心を示さない「変わった」子供だったから両親はこの世にありもしない変なものにハマってしまったと言っていた。
つまりナターシャに対する悩みからなんらかの思想への傾倒が悪循環的に繰り返され、徐々に正気を失うほどに先鋭化していったということではないだろうか。
文明批判的な側面というのは冒頭の絵本の読み聞かせから読み取れる。

リューダは泣いていました。
リューダ「わたし、ここにいたくない。心が凍りついてしまうわ」
妖精「かわいそうなリューダ」
(中略)
妖精「さあおいでリューダ。ここには温かいスープも毛布も、ゴロゴロできるペチカもある。凍った心を溶かしてあげよう」

都市が暗く村が明るく対比的に描かれていることと台詞の内容から都市というものが決して肯定的には描かれていない。
そんな内容の絵本を読み聞かせていたこと、実際に都会へと連れて行ったことは共にナターシャへの教化だったのではないか。
また該当シーンでナターシャがこの世に科学以外何があるのかと問いかけた時に母親が一瞬険しい表情を見せる。

普通に考えれば夢の無さとか子供らしくないことへの懸念と取れるが、後々の両親の異常な行動を顧みれば思想を否定したことへの不快感とも取れる。
更にこちらのシーンにも注目したい。

ここも先ほどのブログを読むまではほとんど意識してなかったのだが、言われてみると確かに示唆があった。
一方は舗装された道で、一方は道から「外れた」未舗装の道。
両親は迷わず未舗装の道に歩みを進め、文字通り道を外したことを示唆しているのだろうが、と同時にこの分岐は文明と自然の別れ道を暗喩しているようにも見える。
以上の箇所から文明批判的な要素が読み取れるのだが、これを元に洞窟内での出来事を見てみたい。
3人は目の前に現れた洞窟に足を踏み入れ地下へと下りていく。
すると周囲からは狂ったような笑い声が聞こえ出し、両親はナターシャの手を引き引きどんどんどんどん加速していく。
そのまま両親は闇へと姿を消してしまい、ナターシャが一人残されたところにロボ子と出会うというものだが、この洞窟についてはおそらく両親がハマり込んだ思想団体の施設だったのではないか。
加速していく両親というのは思想に更にハマり込んでいき、ついにはナターシャすら置き去りにしてしまった姿だと考えられる。
それほどに先鋭化した団体だとすれば、ナターシャから見ればそこに生きる者は狂気的と言えるため、笑い声というのもその象徴と言える。
強引な解釈に思えるかもしれないが、この辺りナターシャ自身何が起こったんか分からんと発言しているように抽象的なシーンとなっているため、どうしても推測に推測を重ねるしかないのだ。
加えてなぜその先が西ウド川だったのかという点については実は解釈しきれず、論理としては更に飛躍してしまったが、一応仮説は立ててみた。
ナターシャが何年も歩いた気がすると言っている点から地下遺跡はウクライナから西ウド川に連なるほどに相当な大規模構造をしているのではないだろうか。
そのなんらかの思想というのが神秘思想的なものであれば、超古代遺跡という理由から団体の根城として選ばれたのもそこまで不自然ではない。
ただ、これについては西ウド川付近にいたナターシャが子供のままなので、むしろワープとかのほうが現実的なのかもしれないが、それはそれで突飛すぎる。
ロボ子があの場所にいた理由についても、ウドをエネルギー源としていることから古代文明の遺産辺りではなかろうか。
さて時間軸は現代に戻り、ナターシャは思わぬ形で過去と対峙することになる。

これをケイトは人類の根源的な恐怖を具現化した寄生体と言う。
それがナターシャにとっては過去という形で現れ、両親の声とともに二人の手が現れ気圧されてしまう。

ナターシャにとって二人の手というのは引っ張り回されたトラウマにほかならないのだが、それを過去とともに断ち切るかの如くロボ子が登場する。

最終的に親株が復活して力を得たロボ子によって撃退されるのだが、その様は悲しげに演出され、ナターシャも複雑な表情を浮かべる。
狂気に取り憑かれてしまったとはいえ、絵本を大切にしていたように決して両親に愛情が無かったわけではなかったからだ。
アジトへと戻ったナターシャは、そこで見つけたけん玉を手にし、成功させる。

これは以下のけん玉がうまく出来なかったロボットとの対比となっていて過去の完全な精算を表している。

この辺りについては先ほど紹介させてもらったブログにおける考察がとても優れているので是非一読してもらいたい。
特にロボットではなくナターシャがけん玉を成功させた意味、そして過去との訣別が持つ意味には深い洞察がある。

ケイトの正体

さて今回はナターシャが深く掘り下げられる一方、ケイトの素性についても重要な示唆があった。

これはナターシャの過去の一場面だが、見ての通り全く容姿に変化がないのだ。
一方EDテーマであるビジュメニアの歌詞にこんなフレーズがある。

大きなのっぽの古い時計は
もう動かないから あとは永遠
終わらない時の中 私は踊る
息を切らして

読み違えしているかもしれないが悠木碧は以下のインタビューの中で、歌の主人公はケイトではないと発言している。
悠木碧「ビジュメニア」インタビュー (2/4) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

──じゃあタイトルに特に意味はない?

いえ。「プティパ」「メリバ」の楽曲もそうだったんですけど、今までの私の曲には1曲に1人ずつ主人公がいて、この曲の場合は「ビジュメニア」が主人公ですね。で、このビジュメニア氏は非常に高圧的な幼女でして。

──「世界征服〜」のヴィニエイラ様とはまた別の幼女?

別の幼女です。

しかし次のフレーズは明らかに嫌煙という設定を基に書かれている。

ケムリは嫌い
漂い流れ 光曇らすから

総合的に考えると、ケイトは少なくとも不老不死かその類の存在ということになりそうだ。
ただ、老成しているように見える反面、なぜ精神的に幼い部分が残るのかという疑問は残る。
また初対面であるはずのナターシャに対してお前はなんでも出来ると言っていて、これは第一話で明日汰の家出を見抜いたのと同様知っていたようにも思える。
会話の途中からの回想ともなっていたので、もちろんそれで知ったという可能性も十分にあるが。

視聴者明日汰

明日汰の役回りというのがなかなか興味深い。
ナターシャのウクライナから西ウド川への移動や人類の根源的な恐怖を具現化した寄生体など、突飛な言動があると明日汰のツッコミが入る。
いやツッコミキャラなので当たり前なのだが、これは笑いを誘うと同時に話の突飛さを抑えるという効果も生んでいる。
超古代文明にせよウクライナからの移動にせよ寄生体にせよ、どれもあまりに荒唐無稽だが、設定としてはマジなのだ。
しかしそこでシリアスになってしまうと、いやいきなり何言い出してんのと視聴者は冷めてしまうか、最悪ギャグの対象になってしまう。
そこにツッコミが入って笑いに変わることで違和感は不思議と中和される。
視聴者との距離の取り方が実に巧みだなと思うのだが、第三者的、視聴者的視点を持った明日汰を巧みに操ってるからこそなんだろう。

あとがき

「妖精」という枝葉の部分にこだわりすぎて、話の全体の意味というところまでは踏み込めなかった。
最後にもう一度見た際、なぜウクライナと西ウド川がつながっていたのかということももっと視野を広げれば読み取れたように思えた。
また今回のサブタイトルである「UDOは冷たい土の中に」だが、こちらは「主人は冷たい土の中に」のもじりとなっていて、オリジナルは惜別を歌った曲なのだが、ここにもまたなにか秘密が隠されている気がする。
そもそも「妖精」の解釈すらあまり自信を持てたものではなかったりする。
とは言え時間の都合もあるし、今はこれ以上の解釈は見いだせそうもないのでここで終わりとする。
ただ、ここまで深く読み込めるような話だったことはとても嬉しい。
こうして多様に解釈できるような側面こそ岡村天斎作品に求めていたものだったからだ。

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