オブセッシブエッグ・プライオリティ

「OCDをなんとかしたい」

最近、自分の柔軟性の無さにめちゃくちゃ腹が立つ出来事があって、何もかもOCDが原因だとヤケクソ気味に強迫行為を全部やめ好きなようにやってやろうと考えた。

でも今まで強迫観念に従って生きてきただけにやっぱり何をしていいのかがわからない。

そこで手始めに「したいことリスト」を作って、リストに従いやりたい順にやっていけばいいのではないかと考えた。

結局順番に縛られてる気もするけど、やりたい順なら今までの非効率だったり無意味な順番にこだわるよりは数億倍マシなのかなと。

それに実際リストを作ってみると、その内容が全く秩序だってない不完全恐怖的には非常に気持ち悪いもので、これをやりたい順に実行していくのは行動療法的にはありだとも思った。

だがしかし、実行しようにも少し前に書いたお金を始めとした色んな問題に改めてぶち当たり、

何かしたいにしてもお金がない→ならお金のかかるものを除外していこう→あれ?特にやりたいことなくね……

という感じで早々に行き詰まってしまった。

またアニメに対するこだわりが捨てられないという更に大きな問題も浮き彫りになった。

「アニメを見なきゃいけない」という強迫観念があまりに強くて、アニメ以外にやりたいことがあってもそちらを優先させられないのだ。

以前OCDのガイドブックを読んだ折「強迫行為を段階分けして変えやすいところから変えていきましょう」といったアドバイスが書かれていた。

その意味でアニメ鑑賞は10段階でレベルMAX、こだわりが非常に強い対象で強迫行為の本丸、一種の聖域と呼べるものになってしまっている。

異常と言えるほどに時間を費やし、他の多くを犠牲にし、果ては生活が立ち行かなくなってしまってるのもそう考えれば最もなことなのかもしれない。

ただ逆に考えればアニメに対する強迫観念を解消していければOCDが大きく寛解する可能性があり、方針転換してアニメに絞って対処してみることにした。

段階的に対処する?

大前提としてアニメの何にこだわってるかというと「見ること」と「感想を書くこと」だ。

特に感想については、

書き終わらなければ次に移れない→でもなかなか書き進まない→無為に過ごす

というドツボに2ヶ月もハマり続ける大問題を引き起こしているのでまずこちらから見ていきたい。

この問題の根底にあるのが「納得の行く形でアウトプットしなきゃいけない」という強迫観念なので、強迫観念を解体していければ晴れて問題も解決となる。

そこで感想にかける時間を徐々に短くしていくアプローチに再チャレンジしようと考えた。

1週間以内→翌日まで→2時間までといった具合に感想に費やせる時間を段階的に減らし、加えて「期限内に書けなくても持ち越さない」を徹底する。

こうすれば早く書き上げようとする意識が生まれるし、他方で時間内に書ききれないケースが間違いなく出てくる。

そこで諦めていくことにより「すべての作品の感想を書かねばならない」という強迫観念を弱めていける(ハズ)

前も同じアプローチを試みたんだけど「持ち越さない」が徹底できず期限が意味の無いものになり永遠に(僕が言いたいのは永遠)書き続けていた。だから今回はこの点を徹底しようと。

が、この過程は次のキッカケによって一気にショートカットされることになった。

TAAF

3/11からTAAFというアニメ映画祭が池袋で開催され、金土日月の4日間で長編が4本、短編が30本ほど一挙に上映されていた。

animefestival.jp

これを全部見ようと目論んだのだけど、そうなると

作品見る→感想書く→次の作品→感想……

というフローの繰り返しはどうしても難しくなってくる。

特に土曜日は朝から晩までアニメ三昧のスケジュールとなるし、短編作品は10本分ほどまとめて上映されるので、感想の箇条書きすら間に合わなくなってくる可能性が高い。

つまり完全な形でのアウトプットができないわけで感想に費やす時間を段階的に減らすなんて言ってられなくなる。

また全ての作品の感想を書こうとするならそれこそ終わりの見えない作業になってしまう。

ならどうするか。

今年はTAAFを諦めるという選択肢も浮かんだのだけど、逡巡しているところに悪魔が出てきて「いい機会だし一気に聖域を踏み荒らしてやろうぜ」と囁いてきたのでその提案に乗ってやることにした。

プライオリティ

TAAFを通じインプットとアウトプットのサイクルをいかに維持していくか。そしてそもそもの問題であるアウトプットのウェイトをいかに落としていくか。

アウトプットそのものを止めちまえば万事解決じゃんとなりそうだけど、アウトプットをやめて能動的な鑑賞をしなくなれば作品理解は間違いなく低下する。それは避けたい。

それもまた強迫観念なのだろうけど、作品が深く理解できたこと(気のせいかもしれないけど)に強い喜びも感じてきたわけで、「やりたい」に対してアウトプットをやめるのは「したくない」になる。

じゃあどこが落としどころなのだろうとウンウンと考え続けた結果、ここ最近考え続けていたプライオリティの考え方が非常に役に立った。

冒頭で「したいことリスト」を作ったと書いたけど、それは自分の中の優先順位を明らかにするためだった。

これまた最近書いたこととして、強迫観念は無意識レベルの話だから「やりたいことやろう」と意識してても気づいたらまた「順番通り」にこだわりだしていたりする。

だから優先順位を可視化することが「あれ?自分また変な順番にこだわってるぞ」と気づく大きな助けになると考えたのだ。

このリスト作成作業は思わぬ副産物をもたらしてくれて、徐々に自分の中にプライオリティの意識が根付き始めてもいた。

OCDにより封じていた自分の願望を次々に書き出してみるとその一つ一つが凄く魅力的なものとして映り、「好きなことを優先してく方が人生有意義なんじゃね?」という普通の人はみんな理解しているであろう「真理の発見」につながっていった。

重要な作品のインプット>重要でない作品のアウトプット

この考え方はアウトプットについても言うことができる。

すべての作品の感想を書こうとするよりも、感想を書きたい(書くべき)作品により時間をかけるほうが有意義だ。

であれば文章化する作品を絞り、あとは箇条書き段階でアウトプットを終えればいい。

それならアウトプットに割く時間を減らしつつ作品理解の質も維持できそうではある。

ところが箇条書きにも大きな問題はあって文章ほど論理性を持たないのだ。

文章では論理展開が必要なのに対して箇条書きではその制約が弱まる。だから箇条書き段階で真だと思っていた命題も文章化すると上手く論理展開できず矛盾に気づくことが往々にしてある。

命題を洗い出し考えを洗練できることが文章化するメリットと言えるけど、かと言って全て文章化する……となると振り出しに戻ってしまう。

そこで箇条書きをアップロードすることで論理性がある程度担保できるかもしれないと考えた。

ネットに公開して衆人環視のもとに晒すことで(人来ないけど)、他人の目がチェック機能になり下手なことは書きにくくなる。

正直こだわりという意味でも検索汚染という意味でも箇条書きの形で公開するのは抵抗もあるのだけどまあここは妥協するしかない。

ただそうは言っても箇条書きは箇条書きであり文章化したときほどの論理性は持たず、その意味で作品理解が落ちるのは避け得ないだろう。

だが重要でない作品のアウトプットにどこまでの価値があるのか。凡作の理解に費やす時間を名作の鑑賞に振り向ける方が有意義ではないのか。

インプットとアウトプットの間でも当然優先順位について考えられるわけで、そこに基づいていったら「全部感想を書かなきゃ」という強迫観念をスッと捨てられてる自分がいた。

インプット

さてアウトプットの一方のインプットである。

見ることへのこだわりはアニメを視聴する順番に表れていて、僕は放送日順に見ることにエラいこだわっている。

バンバン1話切りをするからどんどん次の作品に移ってはいるのだけど、実際には1話切りした作品の大部分は消さずに取っといてある。

「いますぐ見たいわけではないけどいつか~」というノリで2019年4月から保存し続けてきて、なんとその数約20TB、2500時間以上にも上ってしまった。

その「いつか」は見る新作が無くなったらで、その時は19年4月のものから順に見ていこうと本気で考えていた。

この男、アニメを放送日順に見ることにどこまで人生を賭ける気なんだという感じだけど、なぜそこまで録画したものを全部見ることにこだわるのか。

これ根っこには「面白い作品を見逃したくない」という恐れがある(「放送日」という文脈へのこだわりもあるのだけど)

1話切りした作品の中には良作、時に名作と言えるものがあったりして、そういう作品と出会う経験をもう何度もしてしまっている。

その感動を知ってるからおいそれと録画ファイルを削除できなくなり「いつか全部見るんだ」と保存に心血を注ぎ続ける。

でもプライオリティに基づいた考え方によってこの呪縛からもようやく解き放たれつつある。

見たい作品から見ていくほうが明らかに有意義だし、もっと広い目で見れば優先度の低いアニメより本でも映画でもゲームでもジャンル問わずもっとインプットすべきものはたくさんある。

所詮1話切りした作品なんかその程度の作品であり、その粋に達していなかったのだ。

もし本当に見るべき作品だったとするならどこかで見る機会は必ず訪れるはず。だって「見るべき」なのだから。

パラダイムシフト

というわけで自分の中でいろいろと腑に落ちたので、今後は「見たい順に見る、書きたい作品だけ書く」スタイルでやっていけ……そ……う?(消え入るような声)

自分を納得させるためにここまでの言葉を尽くしてきたように、それでも強迫観念を変えていけるのか自信はなくて、結局1ヶ月後には元の木阿弥なのかもしれない。

だからこそOCDは厄介なのだけど。

ただ今回思いっきりやり方を変えるアプローチを取ったけど、この姿勢はOCDと向き合う上で大切なことだと思った。

今までは新しいやり方を思いついても「失敗しても元のやり方にこだわる」、「徐々にしか変えない」ってのが常だったんだけど、往々にして長い時間かけてあまり状況が変わっていなかった。

もっと言うと「段階を踏む」行為そのものが強迫観念を悪化させて、柔軟な思考を阻害してしてたところさえあるのかもしれない。

だからすぐにやり方を変えるってアプローチは強迫観念に風穴を開ける意味で大いに効果的なんじゃないかと思う。

もちろんやり方を変えないほうが良かったってケースもたくさんあるだろうけど、こだわりが強すぎる人間はガンガン変えていくくらいのほうがやっぱバランスが取れるのかなと。