レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで

 理想を捨てきれずに現実の前に自分を見失ってしまった哀れな夫婦の物語と切り捨ててしまえば簡単なのだけど、最後まで現実を受け入れられなかった妻のエイプリルの姿には痛く同情と共感を覚えることはまた禁じえなかった。

 「普通」の人間は大人になるにつれて理想と現実に折り合いをつけていく。現実とぶつかりながら自分が特別な存在だというのは思い違いだったのだと。だが、エイプリル・ウィーラーにはそれができなかった。

 かつて女優を目指し、その才能があると信じていたエイプリル。物語はそんな彼女が市民劇団の立ち上げに失敗した姿が描かれるところから始まる。これが彼女の崩壊の始まりのようで、作中では明確には描かれないが、しかし実はそのずっと以前から彼女は理想の自分に蝕まれ続けていた。夢を実現することに燃えていた若き日に彼女は夫であるフランクと恋に落ち、結ばれ、二子を儲けることになる。そうして妻として、主婦として時を重ねれば重ねていくほどに理想の自分と乖離してゆき、現実の自分に徐々に彼女は耐えられなくなっていった。そして理想の自分を取り戻そうと思い立ったのが市民劇団の立ち上げだったのだろう。だがそれは脆くも失敗した。

 それでももがき続ける彼女は昔フランクの言ったある言葉を思い出す。かつて自分が訪れたパリは特別な街だったという言葉を。そして彼女は考える。パリに行けば変われる、本当の自分たちになれると。そしてフランクにパリに行く話を持ちかけ、乗り気になったフランクと本気でパリへの移住を考え始める。だが冷静になって現実に引き戻されていくフランクと、エイプリル自身も妊娠という現実を突きつけられることでそれもまた失敗に終わる。

 妊娠以前に我々視聴者は徐々に悟り始める。彼女たち夫婦は明らかに地に足がついてない、だからパリに行くことはきっとかなわないのだろう、そもそも彼女たちは特別な人間ではないのだということに。そうなると俄然物語の結末が気になってくる。現実が見えていないこの夫婦は一体どうなってしまうのだろう、ついにはエイプリルがフランクとともに現実を受け入れるという虚しさの残る結末に終わってしまうのだろうかと。

 そうではなかった。彼女は最後の最後までもがき、現実も受け入れようとしながら結局は受け入れきれなかった。だからお腹の子どもという現実と決別しよう自ら堕胎を試みるのだが、それは失血死という不幸な結末に繋がり、そこで物語の幕は降りる。

 おそらく彼女は助かったとしてもいずれ精神を蝕まれていったのであろうと僕は思う。肉体的に死ぬか、精神的に死ぬかその違いに過ぎないが、物語を結ぶには肉体的な死が適切だったというのは分かるように思える。

 エイプリルは愚かな人間なのだろうか。物語上もそうだが、そのことを考える上でも知人の息子であるジャックの存在は非常に印象深かった。彼は「理想」のアイコンとなっていた。と同時に精神疾患も抱えていた。

 夫婦がパリに行く決意を固めていた時、ウィーラー夫婦はジャックと強く共感し合うのだが、それはつまり夫婦が狂気的であるということを示唆していた。

 現実に折り合いをつけられない姿というのは確かに狂気的かもしれない。だが、現実を拒絶する姿を僕自身は嗤うことなど決してできない。いくら現実との折り合いをつけたつもりでも多くの人は大なり小なり理想を胸に秘め続けるからだ。そうした人は確実に作品に自分の姿を見る。だからこの作品は突き刺さる。

 物語が1950年代という時代に設定されていたのはなぜなのだろうかといううことも思ったが、おそらく女性の社会進出がまださほど進んでいなかった時代だからこそ起きえた悲劇という想定があったのだろう。