やっぱ家族って最高や!的ステレオタイプな映画かと思ったら予想外に苦々しい結末が待っていた。
結局のところ独り身も結婚も否定してはいないけど、色んな生き方があっていいという風に肯定もしてないんだよな。
むしろどんな道を選んでも困難が待ち構えてるくらいに人生を厳しいものとして捉えているように受け取れた。
ただリーマンショック直後の世相、また解雇がテーマである事を考えるとこうした結末は初めから予測できたものだったのかもしれない。
職務とは言え他人のクビ切りしてる人間が、自殺者まで出てる中で、自分だけハッピーエンドでは筋が全く通らなくなってしまうし。
それくらい解雇というのは重い行為で、実際解雇シーンに入るたびに強い緊張感が作品を引き締めていた。
もう一方のテーマが「移動」で、ロードムービーならぬ「エアムービー」のような趣があったけど、ここで緊張が和らぎ、再び解雇シーンで締まりが繰り返される事で緩急が生み出されていた。
また頻繁に舞台が移り変わる事で視覚的に飽きさせないという効果もあった。
その意味では後半に出張が廃止されて以降は少し緩まりすぎてしまった点は否めずやや退屈さも否めなかったが、苦い結末によって締められたと言えるかもしれない。
Amazonのレビューを眺めてると、ライアンの様になるビジネスマンとしての姿に憧れるといったレビューが散見されたけど、それは個人的にも感じた。
出来る男って意味でもそうだけど、世界各地を飛行機で飛び回るような生き方はやっぱカッコいいよね。
ジョージ・クルーニーの端正なマスクや颯爽とした芝居によって出来る男っぷりが引き立てられていた部分も大きい。
さてこの作品を見たのは『filmmaker's eye』という本で映像文法を学ぼうと思ったからだ。
それで最初に紹介されていたのが本作だった。
本文を簡単にまとめてみる。
ナタリーが椅子だらけの部屋で一人佇むシーンが取り上げられている。
このシーンは椅子の数がその日にナタリーが解雇した人数を表していて、乱雑に置かれた椅子がナタリーの心の乱れを表している。
それがロングショットかつハイアングル、及び三分割法を用いて表現されている。
という事らしい。
ハイアングルが登場人物の動揺を表すって点はもとより、ショットの構図によって作り手が何を見せたいのかってのは非常に参考になった。
単に中央に人物を配置してる時はその人物に焦点を当てたいくらいの認識はあったけど、では逆に画面右や左に居るとき空間ができていたらという意識のもとで改めてアニメを見てみたら見え方が結構変わった。
ツルネ ―風舞高校弓道部― #6 弓引く理由(わけ)
1話から感じてたんだけど「なのじゃ」とか「ですの」とかステレオタイプな語尾によるキャラ付けがすげー気になる。
まあ原作を踏襲してるだけなんだろうけど、丁寧な芝居とのギャップに尚更違和感を覚える。
デカダンス #3 steering